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第3話 三年前に終わった話

Penulis: 花柳響
last update Tanggal publikasi: 2026-06-17 16:08:25

 司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。

 三年前より少し痩せたように見える。

 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。

 何も変わっていない。

 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。

「栞……」

 呼ばれた名が、廊下に落ちる。

 私は足を止めなかった。

「話があるんだ」

 司が一歩踏み出す。

 その指先が、私の袖をかすめた。

 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。

「今、あなたと話すことはありません。私はもう、如月家の人間でも、あなたの婚約者でもないので」

 司の顔がこわばった。

「栞、俺は……」

「……もう、その呼び方はやめてください」

 冷たく言い切った。

 そうしなければ、ほんの少しだけ残っている昔の自分が、この男の声に振り返ってしまいそうで嫌だった。

「三年前に終わった話です。今さら、廊下で拾い直す気はありません」

 司はそれ以上、何も言えなかった。

 私は彼の横を通り過ぎ、かつて自分に与えられていた部屋へ向かった。

 部屋の調度品は、何一つ変わっていなかった。

 ベッドも、机も、窓辺の薄いカーテンも、追い出された日のままだ。

 まるで、私だけが三年分汚れて戻ってきたみたいだった。

 胸の奥が冷える。

 ここは私の部屋だった場所で、もう私の帰る場所ではない。

 そう言い聞かせながら、最低限必要な荷物をまとめていると、ドアが強く叩かれた。

 開けると、未央が立っていた。

 客間で見せていた上品な笑みは消えている。唇は怒りで薄く歪み、目だけがぎらついていた。

「さっき司さんに会ったんでしょう? また何か話したの?」

 私はドアノブから手を離さなかった。

 廊下の明かりが、未央の横顔を白く照らしている。

「何を話したかなんて、あなたに報告する義務はないでしょう。婚約者の管理表なら、自分で作ってください」

「司さんは今、私のものよ。あなたがどれだけ平気なふりをしても、もう戻らないんだから」

 彼女は声を潜め、楽しそうに続けた。

「あの不気味な車椅子の男と、一生暗い部屋で暮らせばいいわ」

 自分で選んだ男を相手に、勝った顔をしているなら、好きにすればいい。けれど、人を景品みたいに並べて優劣をつける目は、もう見飽きていた。

 胸の奥が、ほんの一瞬だけ刺されたように痛んだ。

 司を取られたことではない。

 三年前、誰にも選ばれなかった自分を、また見せつけられた気がしたからだ。

 けれど、その痛みを未央に渡す必要はない。

「何度も同じこと、言わせないで」

 私はゆっくり息を吐いた。

「三年前、彼が私の電話を切った瞬間から、私の中では終わってます。あなたがそれを宝物みたいに磨き続けたいなら、好きにすればいい。でも、私を巻き込まないで」

「っ……!」

 未央は何かを言おうとして、言葉を失った。

 攻撃が届いていない。

 そう思ったのだろう。

 私は扉を閉め、鍵をかけた。

 背中を扉に預けた瞬間、膝から少しだけ力が抜ける。

 まだ平気ではない。

 でも、平気でないまま進むことはできる。

 その夜から二日間、私は如月本家で過ごした。

 正確には、過ごさせられた。

 誓約書の作成、婚姻に必要な書類、榊家へ向けた形式だけの挨拶文。すべてが、私の意思ではなく如月家の都合で進んでいく。

 廊下を歩けば使用人が黙り、食卓につけば親族の誰かがわざとらしく咳払いをした。

「偽物でも役に立つことがあるのね」

 そんな囁きが、障子一枚の向こうから聞こえた夜もあった。

 二日目の夕食には、なぜか司も同席していた。

 未央は彼の隣に座り、腕に自分の手を絡ませている。

 やわらかな笑み。少し首を傾げる仕草。

 誰が見ても、可憐な婚約者に見えるだろう。

「司さん、この前買っていただいたネックレス、お友達にすごく褒められたの。今度のお食事のときも着けていっていい?」

「あ、ああ。未央が気に入ってくれたなら」

 司の返事は上の空だった。

 視線が何度も、円卓の向こうにいる私へ流れてくる。

 未央はそれに気づいていた。

 だから余計に、司の皿へ料理を取り分け、肩を寄せ、わざと明るい声を出す。

「お姉ちゃん、そんなに静かにしていなくてもいいのに。榊様のところへ行けるなんて、本当は幸運なことなのよ。お父様も、ちゃんとお姉ちゃんの将来を考えてくださったんだから」

 優しい言葉の形をしている。

 けれど中身は、薄い刃だった。

「そうね」

 私は箸を置き、未央を見る。

「少なくとも、誰かの顔色を見ながら幸せなふりをしなくて済みますから」

 未央の笑みが固まった。

 隆一が低く咳払いをする。

「栞」

「失礼しました。先に休ませていただきます」

 それ以上、同じ空気を吸っていたくなかった。

 深夜、頭を冷やすために庭へ出た。

 池の水面に月が揺れている。冷たい風が、頬を撫でた。

「栞」

 池のほとりに、司がいた。

 私は足を止めた。

「偶然にしては、都合がよすぎますね」

「……どうしても、一言だけ。謝りたかった」

「謝れば終わる話だと思ってるなら、戻ってください」

「違う。三年前は、俺にも事情があった。父からも、如月家の真の令嬢は未央だから婚約相手を切り替えるべきだと言われてた。俺には、家に逆らう力がなかった」

「説明は、もういいです」

 振り返り、司を見る。

「三年前、私が暗闇の中で手を伸ばした時、あなたはそこにいなかった。今はもう、あなたの手はいらないです」

 司の目が揺れた。

「栞、俺は――」

 その声を聞くたび、私はまだ少しだけ昔の自分になる。馬鹿みたいだと思う。終わった人なのに、終わった場所なのに、名前を呼ばれるだけで、雨の夜に戻りそうになる。

「私の人生は、私が歩きます」

 そう言いながら、本当は一瞬だけ、誰かに無理やり連れ出してほしかった。正しく立つことに疲れていた。そんな弱さを司に見せたくなくて、私は背筋だけを伸ばした。

 そう告げて、彼の横を通り過ぎようとした。

 その瞬間、腕を掴まれた。

 次の呼吸で、司の胸に引き寄せられる。

「行くな」

 耳元で、低い声が震えた。

「頼む。あんな男のところへ行くな」

 体がこわばった。

 懐かしい温度だった。

 けれど、懐かしいだけだ。

 それは私を救わなかった温度で、もう戻る場所ではなかった。

「離して」

「栞」

「離して!」

 両手で押し返す。

 司の腕が緩んだ隙に、私は一歩下がった。

「三年前に私を選ばなかった人が、今さら私の行き先を決めないで」

 司の顔から血の気が引いていく。

 私は背を向けた。

 もう振り返らない。

 庭木の奥で、小さな光が一度だけ瞬いたことに、その時の私は気づかなかった。

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