Masuk司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。
三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「その名前で呼ばないでください」 冷たく言い切った。 そうしなければ、ほんの少しだけ残っている昔の自分が、この男の声に振り返ってしまいそうで嫌だった。 「三年前に終わった話です。今さら廊下で拾い直すつもりはありません」 司はそれ以上、何も言えなかった。 私は彼の横を通り過ぎ、かつて自分に与えられていた部屋へ向かった。 部屋の調度品は、何一つ変わっていなかった。 ベッドも、机も、窓辺の薄いカーテンも、追い出された日のままだ。 まるで、私だけが三年分汚れて戻ってきたみたいだった。 胸の奥が冷える。 ここは私の部屋だった場所で、もう私の帰る場所ではない。 そう言い聞かせながら、最低限必要な荷物をまとめていると、ドアが強く叩かれた。 開けると、未央が立っていた。 客間で見せていた上品な笑みは消えている。唇は怒りで薄く歪み、目だけがぎらついていた。 「さっき司さんに会ったんでしょう? また何か話したの?」 私はドアノブから手を離さなかった。 廊下の明かりが、未央の横顔を白く照らしている。 「何を話したかなんて、あなたに説明する必要はないでしょう」 「司さんは今、私のものよ。あなたがどんなに平気なふりをしたって、もう戻らないんだから」 彼女は声を潜め、楽しそうに続けた。 「あの不気味な車椅子の男と、一生暗い部屋で暮らせばいいわ」 胸の奥が、ほんの一瞬だけ刺されたように痛んだ。 司を取られたことではない。 三年前、誰にも選ばれなかった自分を、また見せつけられた気がしたからだ。 けれど、その痛みを未央に渡す必要はない。 「何度も同じことを言わせないで」 私はゆっくり息を吐いた。 「三年前、彼が私の電話を切った瞬間から、私の中ではもう終わってる。あなたがそれを宝物みたいに抱えていたいなら好きにすればいい。でも、私を巻き込まないで」 「っ……!」 未央は何かを言おうとして、言葉を失った。 攻撃が届いていない。 そう思ったのだろう。 私は扉を閉め、鍵をかけた。 背中を扉に預けた瞬間、膝から少しだけ力が抜ける。 まだ平気ではない。 でも、平気でないまま進むことはできる。 その夜から二日間、私は如月本家で過ごした。 正確には、過ごさせられた。 誓約書の作成、婚姻に必要な書類、榊家へ向けた形式だけの挨拶文。すべてが、私の意思ではなく如月家の都合で進んでいく。 廊下を歩けば使用人が黙り、食卓につけば親族の誰かがわざとらしく咳払いをした。 「偽物でも役に立つことがあるのね」 そんな囁きが、障子一枚の向こうから聞こえた夜もあった。 二日目の夕食には、なぜか司も同席していた。 未央は彼の隣に座り、腕に自分の手を絡ませている。 やわらかな笑み。少し首を傾げる仕草。 誰が見ても、可憐な婚約者に見えるだろう。 「司さん、この前買っていただいたネックレス、お友達にすごく褒められたの。今度のお食事のときも着けていっていい?」 「あ、ああ。未央が気に入ってくれたなら」 司の返事は上の空だった。 視線が何度も、円卓の向こうにいる私へ流れてくる。 未央はそれに気づいていた。 だから余計に、司の皿へ料理を取り分け、肩を寄せ、わざと明るい声を出す。 「お姉ちゃん、そんなに静かにしていなくてもいいのに。榊様のところへ行けるなんて、本当は幸運なことなのよ。お父様も、ちゃんとお姉ちゃんの将来を考えてくださったんだから」 優しい言葉の形をしている。 けれど中身は、薄い刃だった。 「そうね」 私は箸を置き、未央を見る。 「少なくとも、誰かの顔色を見ながら幸せなふりをする必要はなくなるでしょうから」 未央の笑みが固まった。 隆一が低く咳払いをする。 「栞」 「失礼しました。先に休ませていただきます」 それ以上、同じ空気を吸っていたくなかった。 深夜、頭を冷やすために庭へ出た。 池の水面に月が揺れている。冷たい風が、頬を撫でた。 「栞」 池のほとりに、司がいた。 私は足を止めた。 「偶然にしては、都合がよすぎますね」 「……どうしても、一言だけ謝りたかった」 「謝れば終わる話だと思っているなら、戻ってください」 「違う。三年前は、俺にも事情があった。父からも、如月家の真の令嬢は未央だから婚約相手を切り替えるべきだと言われていた。俺には、家に逆らう力がなかった」 「説明はいらないと言ったはずです」 振り返り、司を見る。 「三年前、私が暗闇の中で手を伸ばした時、あなたはそこにいなかった。今はもう、あなたの手なんて必要ありません」 司の目が揺れた。 「栞、俺は――」 「自分の人生は、自分で歩きます」 そう告げて、彼の横を通り過ぎようとした。 その瞬間、腕を掴まれた。 次の呼吸で、司の胸に引き寄せられる。 「行くな」 耳元で、低い声が震えた。 「頼む。あんな男のところへ行くな」 体がこわばった。 懐かしい温度だった。 けれど、懐かしいだけだ。 それは私を救わなかった温度で、もう戻る場所ではなかった。 「離して」 「栞」 「離して!」 両手で押し返す。 司の腕が緩んだ隙に、私は一歩下がった。 「三年前に私を選ばなかった人が、今になって私の行き先を決めないで」 司の顔から血の気が引いていく。 私は背を向けた。 もう振り返らない。 庭木の奥で、小さな光が一度だけ瞬いたことに、その時の私は気づかなかった。「でも、私はそれでいいと思います」 そう言った時、静江さんの指が、ほんの少し動いた。 心電図の小さな音が、一拍分だけ長く聞こえた。 反射だったのかもしれない。私の声に反応したわけではないのかもしれない。 それでも私は、その指を両手で包んだ。「私、如月には戻りません」 言い切ると、口の中が熱くなった。「でも、静江さんのことは置いていきません」 昨日までなら、この二つは同じ方向を向いていないように思えた。 如月家を捨てるなら、静江さんまで捨てることになる。そんなふうに、どこかで思い込まされていた。 違う。 家と、人は同じではない。 私は、静江さんの手をもう一度だけ握り、病室を出た。 廊下へ戻ると、律はさっきと同じ場所で待っていた。相良さんは少し離れて、病院職員と何かを確認している。「会えましたか」「眠っていました」「そうですか」 律はそれ以上聞かなかった。 何も言われないことがありがたくて、少し困った。 病院の家族待合室へ向かうと、先に隆一がいた。 待合室には、自動販売機の低い振動音があった。 病室の静けさとは違う、生活の中の音だった。 隆一は紙コップのコーヒーにも手をつけていない。表面に張った薄い膜が、空調の風でわずかに揺れていた。 濃紺のスーツ。整えた髪。疲れた顔。昨夜の広間で崩れかけたものを、朝までにどうにか戻してきたように見える。 テーブルの上には、数枚の書類が重ねられていた。 その一番上に、婚姻届がある。 背中の真ん中が、すっと冷えた。「栞」 隆一はそう呼びかけ、すぐに言い直した。「……朝霧」 慣れない呼び方を口にする時のぎこちなさに、少しだけ胸が軋んだ。「何の書類ですか」「手続きを急いだ方がいい。榊側の支援が正式に動けば、金融機関への説明もしやすくなる」 会社。 やはり、そこへ戻る。 私は椅子に座らず、テーブルの
病院へ向かう車の中で、律はほとんど話さなかった。 それが気まずくないと言えば嘘になる。けれど、何かを説明され続けるよりはよかった。 膝の上には、昨夜から持ち歩いているファイルがある。契約書の草案。古い名刺。支援窓口のカード。どれも薄い紙なのに、重さだけは別々だった。 窓の外を流れる朝の街は、いつも通りだった。通勤の人が信号を待ち、コンビニの配送車が路肩に停まっている。 私だけが、昨日と違う名前の場所へ来てしまったようだった。 病院の廊下は、朝なのに夜の底みたいに静かだった。 白い床に、蛍光灯の光が薄く伸びている。看護師の靴音が遠くで止まり、また離れていった。消毒液の匂いは昨日と同じで、胃のあたりをわずかに冷たくした。 ナースステーションで面会の確認をした時、受付の職員は少し迷った。 如月家からの申請書には、まだ私の名前が如月栞と残っている。榊側から追加で入った連絡票には、朝霧栞とある。 その二つを見比べる数秒が、思ったより長かった。「ご本人確認のため、お名前をお願いします」「朝霧栞です」 口にしたあと、舌の上にその名前の重さが残った。 職員は身分証と連絡票を確認し、事務的に告げた。「本日は朝霧様で記録いたします」 それだけのことなのに、私はすぐには頷けなかった。 私は病室の前で足を止めた。 律は、少し離れた場所にいた。車椅子の黒い輪郭が、壁際の影に溶けている。「ここからは、一人で入ります」「はい」 返事は短かった。 返ってきたのは、本当にそれだけだった。 止めない。ついてくるとも言わない。昨夜の約束通り、私が決めた線の手前で止まっている。 そのことに、一瞬だけ息がしやすくなった。 病室に入ると、静江さんは眠っていた。 酸素マスクの下で、唇がかすかに動いている。手の甲には点滴の針。薄い布団の上に置かれた指は、昨日よりもさらに細く見えた。「静江さん」 呼びかけても、まぶたは動かなかった。 私は椅子に座り、布団の端に触れた。白い布は乾いているのに
「朝霧という名前を、あなたの家の都合で使われるのは嫌です」「分かっています」「私が使うから、意味があるんです」「はい」 短い返事だった。 でも、その短さは悪くなかった。 説明されるより、ずっと聞きやすい。「では、病院までは一緒に来てください。病室には、私一人で入ります」「分かりました」「本当に?」「はい」 あっさり返されると、逆に疑いたくなる。 けれど律は、それ以上踏み込まなかった。 車椅子の向きをわずかに変え、相良さんに出発の準備を頼むだけだった。 その動作の途中で、また見えた。 床に置かれた彼の靴先が、ほんの少しだけ角度を変える。 車椅子の向きとは別に。 まるで、体の方が先に動こうとして、それを止めたように。 私は視線を逸らした。 気づかなかったふりをした。 まだ、問い詰める時ではない。 たぶん、律もそれを知っている。 ◇ 如月本家では、朝から未央の声が廊下まで響いていた。「どういうことなの。どうしてあの人が、朝霧なんて名前を知ってるのよ」 昨夜のまま眠れなかったのか、未央の目元には薄く影が落ちていた。 それでも髪は丁寧に巻かれ、部屋着も淡い色で揃えられている。 鏡の前に立つ姿だけなら、いつも通りの令嬢に見えた。 ただ、スマートフォンを握る指先だけが白い。「調べさせております」 電話の向こうで、男の声が答えた。 父の紹介で使っている調査会社の人間だ。名前は覚えていない。覚える必要もないと思っていた。「早くして。榊律が何を知っているのか、全部」「承知しました。ただ、一つ気になる点が」「何」「榊律氏の事故記録です。公表資料と、当時の医療関係者の証言が一部合いません」 未央は眉をひそめた。「事故で火傷して、車椅子なんでしょう」「そう発表されています。ただ、事故直後から数か月の動きに、確認できない空白がありま
「そこ、否定しないんですか」「否定すると、もっとずるくなる」 返事が、わずかに遅れた。 笑いそうになったわけではない。 泣きそうになったわけでもない。 ただ、あの夜の自分が、三年遅れて誰かの視界に入っていたことを、どう扱えばいいのか分からなかった。「……三年、遅いです」「はい」「今さら渡されても、私はあの夜には戻れません」 律の目が、仮面の奥でわずかに揺れた。「戻ってほしいとは思っていません」 それは優しさに似ていた。 でも、優しさだけではない。 自分の失敗を、自分の手元に置いている人の声だった。「では、どうして今」「昨日、あなたが聞いたからです」「支配ではないのか、と?」「はい」 律は、机の上に置かれた書類の束へ視線を落とした。 昨夜の契約書とは違う。表紙に、如月家との絶縁合意に関する確認、と印字されている。「私が先にすべてを整えて、あなたに差し出せば、また同じことになります」「如月家と?」「形は違っても」 爪先に、知らないうちに力が入っていた。 律は私を守ろうとしている。 それでも、守るという言葉の中に、私が選べない形が混ざることを恐れている。 この人は、強い。 けれど、強いだけではない。 強いからこそ、自分の手で壊すことを知っている。「今日、病院へ行きたいです」 私は言った。 律が顔を上げる。「静江さんのところへ」「もちろんです」「榊家の人間としてではなく、朝霧栞として行きます」 言ってから、指先が少し震えた。 まだ慣れない名前。 でも、今口にしなければ、また誰かに先に決められる。そう思った。 律は頷いた。「車を出します。私が一緒に行くかどうかは、あなたが決めてください」「本当は、一緒に来たいんでしょう」「したいです」「正直ですね」
廊下は昨日よりも明るい。窓から庭が見え、低く刈り込まれた植え込みの上に朝露が残っていた。 昨日は気づかなかった。外を見る余裕などなかったのだ。 書斎の扉の前で、相良さんが軽くノックする。 中から「どうぞ」と低い声がした。 律は窓際にいた。 車椅子に座ったまま、机へは向かっていない。 黒い仮面は、昨日と同じように顔の上半分を覆っている。けれど朝の光の中で見ると、その影は夜より少し薄かった。 「おはようございます」 その言葉は、きれいには着地しなかった。私は一度、目を伏せた。 「おはようございます」 挨拶だけで、距離が測られる。 昨日まで知らなかった男と、これから契約上の婚約者になる男。 どういうの距離感で立てばいいのか、まだ分からない。 私は封筒を胸の前で持った。 「これは」 「あの夜、渡せなかったものです」 三年前。 その言葉を、律は口にしなかった。 それでも分かった。 封を開ける。 中には、二つ折りにされた名刺と、小さなカードが入っていた。 名刺の角は水を吸ったように少し波打っている。文字は読める。 榊律。 榊グループ。 もう一枚のカードには、宿泊支援と法律相談を行う民間窓口の連絡先が印刷されていた。 財団名のところに、榊の文字が入っている。 指先が止まった。 雨の音が、耳の奥で蘇る。 高架下。濡れた髪。膝に貼りついたスカート。何度かけても繋がらなかった司への電話。 通り過ぎていく車の水しぶき。 その中で、視界の端に差し出された傘。 黒い傘だった。 持ち手は冷たく、少し重かった。 私は礼も言えずに受け取った。 顔を上げた時には、男はもう少し離れた場所に立っていた。 思い出した。 全部ではない。 でも、声をかけられなかったことだけは、なぜか覚えている。 「……あなた、あの時の」 言葉が途中で切れた。
朝の光は、厚いカーテンの隙間から細く入り込んでいた。 廊下の遠くで、車輪の金具が控えめに鳴った。 目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。 天井が高い。 壁紙の色も、枕の沈み方も、昨日までの狭い部屋とは違う。 掛け布団は軽すぎるほど軽く、肌に触れるシーツは、洗いたての水気が完全に抜けた匂いをしていた。 私はしばらく、息を殺していた。 誰かの家に泊まったのではない。 嫁いだのだ。 正確には、まだ書類上の妻ではない。けれど、如月家はもう私を差し出したつもりでいるし、榊家は私を受け入れた形になっている。 そのどちらも、まだ少し遠い。 ベッド脇のテーブルには、昨夜渡された鍵が置いてあった。 銀色の小さな鍵。 それだけが、この部屋に私の居場所を作ったような顔をしている。 私は指先で鍵に触れ、すぐに手を離した。 鍵一つで人は安心できない。 それくらいは、もう知っている。 身支度を整えて部屋を出ると、廊下には相良さんが立っていた。 驚かなかった。 この屋敷では、誰かがどこかに立っていても不思議ではなかった。「おはようございます、朝霧様」「……おはようございます」 呼び名に、ほんの少しだけ喉が引っかかる。 朝霧様。 如月でも、栞お嬢様でもない。 その響きはまだ借り物のようで、けれど昨日までよりは、わずかに息がしやすかった。「朝食をご用意しております」「榊さんは」「先に書斎へ。お食事は、朝霧様がお召し上がりになった後で構わないと」「それ、私は一人で食べればいいってことですか」 口にしてから、少しだけ言い方が硬かったと思った。 相良さんは表情を変えなかった。「無理にご同席なさらなくても構いません、という意味でございます」「……そうですか」 まだ、この家の言葉の温度が分からない。 突き放されているのか